時は過ぎ、室町時代の終わり頃、戦国時代の三河は、今川と織田のせめぎ合いの中におかれ、後に徳川に改名する松平家は、三河武士として大変苦しみましたが、終始、港町である大浜を重要視し、頼りにしていました。
領主の松平広忠は崇敬篤く、熊野権現宮を手厚く保護してくれました。
天文九年(一五四○年)には自ら熊野権現宮に参拝し、武運長久を願っています。
また、天文十二年(一五四三年)には、神社領を確約する安堵状を与えています。
家康が天下をとって江戸幕府が開かれると、大浜村は、徳川家のお膝元の港町として栄えました。
熊野権現宮も家康の厚い崇敬をうけ、 神領の寄進状を与えられています。
家康亡き後も、幕府や多くの大名から寄進があり、 何度か社殿が改築されました。
神社の領地を正式に確定する朱印状が、 九代にわたる徳川将軍から発給されていて、現在、碧南市の有形文化財に指定されています。
以来、神社では、 徳川家康公の深いご厚志に感謝し、 東照大権現(徳川家康公)を合祀し、その徳をたたえています。
江戸時代中期、享保三年(一七一八年)に、大浜村の代官である加藤四郎左衛門泰栄は、部下が泥棒を取り逃がした責任を負い、伊豆へ島流しになるという出来事がありました。
ただ、加藤四郎左衛門泰栄が高齢のため、菊の夫、友右衛門が父の身代わりとなり、大島に流されることになったのです。
妻の菊は嘆き悲しみ、夫の罪が赦され、無事に帰れるように、熊野権現宮にお参りし、お願いをしました。
毎日、お百度参りを続け、手紙を竹筒に入れて、島へ届くように、海岸から流したのです。やがて、菊の必死の願いがかない、手紙が島に届き、役人の赦しを得て、夫は郷里に帰ることができました。
この夫婦愛の話を伝える石碑(加藤菊女の碑)が森の中、社殿の西に建っています。
徳川幕府が滅び、明治維新の後、新政府による神社改革が進められました。
神社合祀令が出され、この地域に点在している神社、龍神社や川田神明社など複数の神社を遷座し、熊野権現宮の境内末社として合祀することになりました。
そのような中、熊野権現宮は大浜地区の中心的な神社として、明治十七年(一八八四 年)に、郷社という高い格付けの神社に認定 されました。
そして、明治三十九年(一九○六年)に、神社名を現在の社号の大濵熊野大神社に改称したのです。
ごんげんの森の様相も少しずつ変化し、地域の人々にとっては一層身近で大切な存在になっていきました。