資料

「諸侯の崇敬」(一部抜粋)

・平清盛
治承四年(一一八〇) 八月、天下太平の祈願状を納め、蝶の紋付灯籠並びに手洗鉢を奉納代参させた。

・新田義貞
建武二年(一三三五)十一月、矢作川にて足利直義の軍と合戦の時、武運長久並びに先勝祈願の祈願状を奉納した。

・今川義元
永禄三年(一五六〇)五月、義元上洛の軍を起こし、三河に入り、尾張を攻めんとしたとき、武運長久並びに先勝祈願状を奉納代参させた。

・松平有親 松平信忠
称名寺に在留中、時々参拝し神饌料を奉納した。

・松平広忠
天文九年(一五四〇)三月九日、崇敬厚く自ら参拝し、武運長久を祈願、神饌料を供進した。

・徳川家康
1)元康と称せし頃より崇敬厚く、度々参拝して武運長久を祈願した。
2) 永禄三年(一五六〇)五月、自ら参拝し、武運長久を祈願し、神饌料を供進した。
3)天正十年(一五八二) 六月四日 家康伊勢国白子浦より乗船して、大浜に上陸し、長田直吉(重元)の邸に入り当神社に武運長久の祈願をし、神饌料を供進した。
4)慶長五年(一六○○)九月、関ヶ原に軍を進めるにあたり、武将を代理として戦勝の祈願をさせた。

・伝通院(家康の母)
天文十六年(一五四七)十月、伝通院岡崎より小川の里方へ帰られる時、侍従をして当社に代参せしめ、 神饌料を供進して、竹千代(家康)の武運長久を祈願された。

・德川代々将軍
代々の将軍より神領寄進の朱印状下付。

・永井直勝(下総国古河藩主・幼名 長田伝八郎)
寛永元年(一六二四)十一月、直勝帰郷の際、自ら参拝して武運長久を祈願し、神饌料を供進した。

・永井直勝 本多俊次(西尾藩主)
寛永二年(一六二五)六月九日、永井、本多両家の寄進により社殿を新しく建立した。

・領主 代官参拝
寛永六年(一六二九)本多俊次当神社祭礼に代参せしめてから、年々領主又は代官の代参があった。

・永井尚政(老中職のちに山城の国 淀城主)
寛永五年(一六六五)本殿の修理をなす。

・酒井家、永井家、長田家
延宝八年(一六八〇)に当神社が炎上して、仮社殿のままになっていたので、元禄十年(一六九七)六月 吉日 酒井家一統、永井家一統 長田家一統の寄進により、社殿を新しく造営した。

その後も酒井家、永井家、水野家、長田家などより多くの寄進があった。

「創建」
第七十九代六条天皇の仁安三年(一一六八)大濱鄉洲崎(大木が数本漂着し、毎夜そこから光を放って いた。当時の古老や村人は長田仙千代白正に相談し大木を付近の小山(元本堂・現在の権現町)に引き揚 げたところ、最も大きな材木に「太一」の文字が記されてあった。
文字のところを切り開くと、そこから熊野権現と書かれた宝剣がでてきた。これは霊木であると思い神楽を奏し、神子に伺わしめたところ「この材木をもって社壇を造営し、熊野大権現を勧請すべし」との宣託があった。
材木を引き揚げた場所に宮を造営し、大木より出てきた宝剣をご神体として、熊野大権現を祀った。そして長田白正は神主として奉仕することとなった。時に、仁安三年九月七日(旧暦)であった。

その後、至徳三年(一三八六)に現在神社の奉祀される地(宮町)に新しく社殿を造営して元本堂の地から奉還した。
当時の長田氏は新田義貞らとともに南北朝時代に後醍醐天皇 建武の中興に力を尽くし、三河南部に雄をなしていたが、南朝方であった長田氏は次第に勢力衰え、下の宮神主として余命を保っていた。
時の神主長田道頼は敬神の念厚く、南北朝合一の機運が熟し、世が平穏についたこの時に神社 奉還の素志を違し神威の拡張を図ったのである。

下の宮の神領は足利幕府初期から徳川幕府初期まで百二十石で続いていたが、慶長十四年以来神社の修復は幕府において為すとの理由で神領を三十六石六斗に減じられた。

創建以来、平清盛、新田義貞、今川義元、松平有親等の武将から厚く崇拝され、度々の祈願、寄進参拝を受けられた。
徳川家の崇敬厚く、中でも松平広忠は神領確認の約束文書を、徳川家康は神領の寄進状をそれぞれ奉献して深く尊崇の誠を致していました。

神社名は創建当時より「熊野権現宮」と称し幕末に至ったが明治三十九年八月十日以降は 「大濵熊野大神社(通称 下の宮下の権現)」と社名を改めた。

概要版より引用