-要旨-
大濵熊野大神社(通称「下の宮熊野神社」)は、創建した平安時代から数々の由緒ある歴史を誇り、社殿も広く格式の非常に高い神社(4等級)である。
大きな松林が広がる境内には、手入れの行き届いた大国主命社、白蛇社、玉津浦神社の末社が鎮座し、菊女の碑、噴水神泉池、児童遊園地のシャワー塔、藤棚等見どころも多く平日でも参拝者が絶えない。又、境内地は弥生時代の土器が発掘された玉津浦遺跡がある。
近年、臨海工業地帯が生まれるまで、遠浅の砂浜が広がる優美な玉津浦海水浴場が開かれ、この地方を代表する観光地であった。
中でも特筆すべきは日赤愛知県支部の夏季保養所が永年にわたり開設されという輝かしい経歴があり、関係者の人々には忘れがたい思い出の地でもある。
神社の運営は現在も崇敬心の篤い氏子に支えられ、祭礼は盛大に斎行されることでも知られていて、活気溢れる大神社である。
熊野本宮のシンボルである八咫烏(ヤタガラス)の印が押されている
-祭神-
伊弉冉命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男命(ことさかおのみこと)の三柱を主神として奉斎してきたが、大正五年(一九一六)一月二十四日無格社琴平社を合併し、祭神崇徳天皇・大国主命の二柱を合祀し奉った。
-創建-
六条天皇仁安三(一一六八)年九月七日とされている。御社号を熊野権現と称し来ったが、明治三十九(一九〇六)年八 月一日現社号に改められた。大浜上の宮の熊野神社に対して通称下の宮、下の権現とも呼ばれている。
-由緒-
社伝によれば仁安三年のある日、大浜の洲崎(当社をさること南西四○○米、元本堂緑地近くの海辺)に数本の大木が流れ着いた。
村人がそれを引き揚げようとしたところ、びくとも動かないばかりか、夜ともなると光り輝いている。
よく見ると一番大きな材木に「太一」の文字が書かれ、中を切り開いてみると神剣が現れ、熊野大権現と書かれていた。
村人はこの剣を御神体とし、それらの材で社殿を建立し、熊野権現をまつり氏神とした。
その後不浄のことがあってこの社(元本堂) が炎上し、御神体は飛び出て今の神社境内の老松にかかったので、現在地に新たに社を建立して祭り、その日を例祭日と定め今日に至っている。
-沿革-
当神社は、創建以来平清盛、新田義貞、今川義元、松平有親等の武将から厚く崇拝され、度々の祈願、寄進、参拝を受けられた。中でも松平広忠は神領確認の約束文書を、その子の家康は神領の寄進状をそれぞれ奉献して深く尊崇の誠をいたしている。
しかし、豊臣秀吉が天下を取るに及んで神領は没収された。 おそらくこれは松平方についた長田氏一族への圧迫であろう。
ところが家康は関ヶ原の戦に大勝を博すると、再び当社の神領を安堵したのであった。家康は慶長五(一六〇〇) 年九月関ヶ原に軍を進める途次、武将を代理として当社に戦勝を祈願、戦に勝つと神恩に感謝して自から代官三浦庄兵衛に命じて社殿を改築せしめている。
ついで大阪夏の陣の際にも、進軍の途中、 当社へ武将を遣わし戦勝を祈願している。
そして大阪城落城と共に豊臣氏が滅亡して徳川の世になると、家康は土地を奉納して社領とし、大浜村に代官所を置き、幕府直轄の行政地としたのである。
爾来当神社は徳川家の篤い崇敬を受け、三代将軍家光、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、九代家重、十代家治、十一代家斉、十二代家慶、十三代家定、の各代の朱印状を貰っている。
尚、徳川将軍ですらこの様であったから譜代大名並びに旗本諸氏の寄進も数多く行われている。
-神領-
前述のように秀吉時代に没収の憂き目をみたものの関ヶ原戦後再び確認され、稲葉備前守忠次から文書が渡されている。 神領の決定した足利初期から一四二石で、これが徳川初期まで続いていたことは、慶長九年代官米津清右衛門の検地帳に、下の宮神領一四二石と認められていることでも判るが、慶長十四年以降、神社の修覆は幕府において行うとの理由で、神領を三十六石六斗に滅ぜられ、明治維新まで変化をみなかったのである。但し、表高は三十六石六斗、田地二町七反二一歩であるが、 実際の内高は大浜において九十四町四反歩余であった。
-宝物、文化財-
碧南市有形指定文化財
徳川氏の朱印状 九通 昭和五十九年指定
三代将軍家光、四代将軍家綱、五代将軍綱吉、八代将軍吉宗、九代将軍家重、十代将軍家治、十一代将軍家斉、十二代将軍家慶、十三代将軍家定
郷土資料より引用