御朱印
一途な夫への愛が奇跡を生み出した伝説の貞女
加藤菊女 (1703?~1773/大浜)
1 書や画才に優れた教養豊かな女性
加藤菊女は、元禄16年(1703)頃、尾張藩士五百石の林治左衛門久保を父に、その妻とうを母に生まれた。
当時幡豆、碧海の一部を所領していた旗本三千石津田外記の代官役を務めていた藤四郎左衛門泰栄 (やすひで)の子息友右衛門の許に、享保元年(1716) の頃菊女は縁あって嫁いだ(後妻)。そのとき、菊女は15、6歳であり、画才に優れ書にも通じ、万事教養豊かな女性であった。また、上品な人柄も備えていた。楽しい幸せの生活がしばしの間続いた。
2 信仰厚い菊女の嫁ぎ先、加藤家
加藤家は大浜の中須賀 (現音羽町二丁目地内) に住む土豪であり、津田外記が宝永2年(1705)浮地(領地)替えで、それまで天領 (江戸幕府直轄の領地)であった伏見屋新田の一部480石が外記の領分となるに及び、その代官を仰せつかった家柄であった。また、大浜下村の三島安兵衛、鷲塚村の片山八次郎などの名家とも縁続きの間柄であった。また信仰も大変厚かった。
3 孫市(まごいち)事件
享保3年(1718)、江戸日本橋の白木屋で、若い僧2人が縁山貫主(芝増上寺の貫主) の命令と偽り、袈裟地織物数巻をだまし取って逃げたことがあった。
そこで白木屋より公儀 (幕府) へ願い出があり、捜索が開始された。1人の僧は勢州(伊勢の国)にて捕らえられた。もう1人の僧は、三州中山(現碧南市伏見屋)貞照院に逃げ込んだという情報で、捕吏(ほり・罪人をめしとる役人)が白昼寺内へ突入した。寺では大鐘をつき、近隣に非常事態を知らせた。
鐘の音を聞き、近隣の百姓たちも大勢集まってきた。そして、百姓たちは、捕吏を盗賊の僧と見間違え、暴行を始めた。
駆けつけた西尾の賭場の魁(かしら・親分) 捕吏から金を出させて寺や農民たちをなだめ、村外へ追い出した。ところが騒動に紛れ、実犯人の若僧は逃亡し、捕吏も仕方なく江戸に帰った。
4 事件の結末、加藤四郎左衛門は伊豆大島へ島流し
この事件により公儀は、貞照院の看守宗心法師と大浜の代官役であった加藤四郎左衛門泰栄を、伊豆大島へ島流しの刑に処した。その他に孫市は打ち首、八か村の百姓の若者たちには、「叱りおく」という判決を下した。
ただ、加藤四郎左衛門泰栄 は、高齢のため、菊女の夫、友右衛門が父の身代わりとなり、大島に流された。断罪は事件の翌年、享保4年(1719)であったと思われる。世に「孫市事件」と言われる首尾不透明な事件の結末であった。
5 島流しになった夫、友右衛門は辛苦にみちた日々を
友右衛門は貞照院看守宗心と共に伊豆大島の新島村(現元町) に渡った。友右衛門と共にわびしい境涯にあった宗心は、憂悶の幾年かを経た享保11年(1726)1 月、再び故郷の土を踏むことなく、この地で相果ててしまった。
今も大島潮音寺に、「法名安誉想心法子」「三州流人」と認められた過去帳が残されているという。その後も、友右衛門は今日の生、明日の死を覚悟して、辛苦にみちた月日に耐えた。
6 お百度と写経の毎日の菊女、手紙を海に流し続ける
一方菊女は、伊豆大島にある夫を想い、安らかにできず、嘆き悲しんだ。菊女は大変信心深く、それからというものは大浜村熊野権現に、日参祈願を決意し、毎夜はだし参りのお百度をふみ、風雨霜雪も構わずに拝伏して夫の無事帰国を祈願した。
家にあっても留守を守り、両親に仕えた。また、心魂を捧げて写経に打ち込み、 毎日のように自分の手紙と写経の一部を竹筒に納めて、これを伊豆の方に向かい、 海中に投じて夫のもとへ届くようにと祈った。
7 貞女の一念が幕府を動かし、夫は赦免
孤独な身の友右衛門はある日、釣り舟を浮かべて釣り糸を垂れていた。そこに小さな竹筒が流れて来て舟に近づくので、何度も押しやった。いくら避けても寄せてくるので、奇異を感じ、拾い上げてみた。そして中を開けてみると、妻菊女の手紙と法華経の写経の一部が入っていたのだ。友右衛門は、驚いて早速このことを島の役人に申し出た。
報告を受けた上司も感激して、更に幕府に上申したところ、貞女の一念に幕府も深く感銘し、節婦の殊勝な行跡に免じて、友右衛門を赦免した。
8年間の流囚の苦難の生活を許されて、なつかしの故郷大浜に着いたのは、享保11 年(1726) 宗心の亡くなったその年の12月であった。
8 報恩と画趣の生活を送った安らかな晩年
再び静かな家庭生活に戻った友右衛門夫婦にとっては、余生ともいえる慎み深い暮らしが始まった。
しかし、享保13年(1728) に友右衛門の母が、翌14年(1729) には父素栄が相ついで亡くなった。その後、松次郎と娘糸が生まれた。子どもの成長につれ、喜びと心温かさにあふれた晩年を過ごしていった。菊女も亀久の署名を使うようになる。また、名古屋から実家の母を迎えて孝養を尽くし仕えた。
常に神仏の慈悲を信じ、参拝と写経により夫が帰られたことは、神恩と深く感謝し、その後も写経を続け、これを寺々に納経した。(今も菊女の奉納写経が林泉寺、妙福寺、 真照院、称名寺、宝珠寺等に保存されている)
また、優れた画才によって三十六歌仙の像並びにその和歌を手筆し、熊野神社、 稲荷社、大濵熊野大神社にそれぞれ真心をこめて奉納した。
9 後世に美談を遺す
夫は宝暦8年(1758)、66歳で、菊女は安永2年(1773)、70歳でこの世を去ったが、宿命の過去から後世に美談を遺した。菊女は学童のかがみとして婦徳顕彰するために全碧海郡の学校に呼びかけ、47枚、2万6千人から浄財が集められた。
その浄財によって大正10年(1921) 8月大浜熊野大神社の境内に、菊女の碑が建てられた。題字は時の愛知県知事宮尾舜治、碑文は碧海郡長豊田幾次郎によって完成した。 また、菊女の墓は宝珠寺境内にある。
碧南を駆け抜けた熱き風たち −碧南人物小伝− より引用
◆もっと知りたいなら
『貞婦菊女と法華経』(昭59 妙法堂)
『貞婦加藤菊女』(昭54碧南市文化財第3集)
左側が菊女の碑、右側が玉津浦神社